即位の礼は5つの国事行為と、その他皇室行事からなります。
1. 剣璽等承継の儀
2019年(令和元年)5月1日10時30分から10分程度〔宮殿 正殿〕
2. 即位後朝見の儀
同日11時10分から10分程度〔宮殿 正殿〕
3. 即位礼正殿の儀
2019年(令和元年)10月22日〔宮殿〕〈予定〉
4. 祝賀御列の儀
同日〔宮殿 - 赤坂御所〕〈予定〉
5. 饗宴の儀
同日、25日、29日、31日〔宮殿 豊明殿・長和殿〕〈予定〉
5月1日、新天皇即位儀礼として最初の儀式である「剣璽等承継の儀」が執り行われました。
剣璽とは三種の神器のうちの、「草薙の剣と勾玉」のことです。
鏡は普段、宮中の賢所に安置されています。
また「剣璽等」の「等」とは、
「皇太子に伝えられる壺切りの御剣(皇太子の地位を象徴する物)」
「東山御文庫の御宸翰・御宸筆」
などを指し、三種の神器とともに、皇室経済法で定められている
「皇位とともに継承する由緒ある物」
に相当します。
これには国璽と御璽も含まれます。
璽とは印鑑を意味し、国璽は日本の国号、御璽は「天皇御璽」と刻印された印鑑のことです。
画像は過去の映像などをもとに再現した御璽のレプリカです。
9センチ四方で高さはおよそ8、5センチ。実物は2.8キロの純金製です。
文書行政が始まるのでそれに伴い天皇が印鑑を押す必要性ができたからで、当時は銅製でした。
御璽を手に入れた者が軍隊を動員できるということで、奈良時代以降はこれを争って内乱も起きました。
歴史上何度か作り直され、東大寺所蔵の「国家珍宝帳:には御璽が500個近く押され、その御璽の実物も残っているということです。
現在の御璽は明治7年に製作されたもので、内大臣府におかれましたが戦後は宮内庁で保管されています。
画像は御璽を実際に使用する所を撮影した貴重なもの。
左上・右上・左下・右下の順でご覧下さい。




5月4日には一般参賀が行われました。
5月8日、新天皇初の祭祀「期日奉告の儀」が執り行われました。
宮中祭祀とは、皇居の中に神社のような建物がある宮中三殿に祀られている神々に真心を捧げる行為で、宮中で祖先の神々にお参りする儀式です。
天皇陛下が剣と勾玉を携え宮中の「賢所(かしこどころ)」に参拝し、天照大神に拝礼し即位礼正殿の儀(10月22日)と大嘗祭(11月14日・15日)の日にちを報告するという儀式です。
陛下のお召し物は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」といい、天皇のみが、それも特別な儀式の時のみ着用できるものです。

黄櫨染とは太陽が一番高く上がった時の色といわれ、実際にはウルシ科ハゼノキからとった染料で赤みがかかった茶色です。
平安時代以降天皇限定の装束となり、鳳凰、桐、竹、麒麟など王者を象徴する模様があしらわれています。
これが即位式に用いられるようになったのは明治時代からで、それ以前は中国風の装束をまとっていたそうです。
国内外の賓客を招いて行われる即位礼正殿の儀でも着用されます。
「期日奉告の儀」がどのように執り行われるのかは公開されていませんが、賢所の外にいた記者は
「鈴の音を聞いた。御鈴と呼ばれる物で、初めて聴く音だった。
神社でガラガラと鳴らすのとも違う、カシャカシャカシャ、というような音」
とコメントしています。
専門家のコメント
「お鈴の儀といい、91回鈴を鳴らしその約10分間の間天皇はは平伏し、低い体勢を保ちながら神に祈るという非常に身体に負担のかかる儀式」
宮中祭祀は年に30回以上もあり、その際には儀式の前に天皇は半身浴で身体を清めなくてはならず皇后が参加する場合は皇后も同様に行います。
半身浴は下半身だけお湯に入って上半身は掛かり湯で流す行為ですが、これは上半身と下半身は一緒にしないという清浄さを追求するための配慮でありそれだけでも大きな身体的負担になります。
毎年大晦日から元旦にかけて行われる歳旦祭の儀は、暖房の一切無い厳しい寒さの中、元旦の午前5時半から行う儀式です。
さらにその他に要人との会見・地方訪問・海外訪問。
80歳を超えた前天皇・現上皇陛下には大変な負担であったであろうと思われます。
こちらも古式装束で、おすべらかしに結った髪に「釵子(さいし)」という金色の簪を挿しておられます。
萌葱色の「小袿(こうちぎ)」という上着の下に「御五衣(いつつぎぬ)」を着用し、総重量は10キロを超えるそうです。
今回の小袿は、萌葱に紫を合わせる「松襲(まつかさね)」というおめでたい色遣いです。
さらに亀甲の地紋が浮き出た生地に、向き合った鶴と松の白い丸紋がちりばめられています。
このような典礼の際の皇后衣装に厳格な取り決めはなく、小袿に五衣に長袴という装束が慣例となっています。
「即位礼正殿の儀」では小袿ではなく、唐衣と裳をつけさらに格式高い物になるということです。
今回の衣装の色は皇后陛下と宮内庁が話し合いをして決めたそうです。
前回の期日報告の儀における前皇后・現上皇后陛下の衣装は、「三重襷」と呼ばれる地紋に鶴の文様があしらわれたものでした。
前回の様式を踏襲しつつ、明るめの色合いになっているということが分かります。
皇后陛下の装いは、膨らました髪型に平安衣装といういわば雛人形に似たものです。
しかし、実際の平安絵巻をざっと思い出しただけでも、この「おすべらかし」という髪型があった記憶はなく、女性は皆髪をまっすぐに伸ばして垂らしています。
実はおすべらかしは江戸時代末期にできた髪型で、民間の女性の髪型にヒントを得て考案されたものなのです。
雛人形も皇后陛下の装束も、古い時代と新しい時代の物が混在したものということになります。
所功・京都産業大名誉教授のコメント
「近代皇室で和装を残すのは簡単ではなかった。
明治以降、各国王室も参考に即位礼など重要な行事では古式装束を守ってきた。
染色や織物などの伝統技術が伝えられているのには皇室が古式装束を守っているのも大きい」
近代以降、近代化の一端として洋装の推進が図られましたがその一翼を積極的に担ったのが皇室でした。
宮中では洋装が取り入れられ、歌会始や宮中晩餐会でも出席者は洋装を通しました。
即位後朝見の儀でも、天皇を始め男性は燕尾服、皇后始め女性皇族はローブデコルテをまとうことになっています。
古い宮中祭祀以外で古式装束が守られているのは、即位礼正殿の儀などごく一部なのです。
午後「竹の間」で「勅使発遣の儀」が執り行われました。
この勅使は大嘗祭の期日を伊勢神宮に報せる使いで、即位礼と大嘗祭の日程を伊勢神宮のほか神武・孝明・明治・大正・昭和の各天皇に報告する役目を負っています。
天皇が「御引直衣(ごひきのうし)」と呼ばれる衣装で、宮内庁長官を介して勅使に「御祭文」を授けられました。
5月13日には「斎田点定の儀」が執り行われました。
これは、大嘗祭で使う米を作る田「斎田」をどこの県におくかを亀卜で占う儀式で、今回は京都と栃木が選ばれました。
儀式は午前10時頃、国中の神々を祀る神殿の前庭に設けられた「斎舎」で行われ40分ほどで終了しました。
天皇は立ち会わず、宮内庁長官から報告を受けて決済されたということです。
その後選ばれた自治体に宮内庁が連絡し、斎田をどこにするかなどを決めます。
斎田の米は古来より献上する物とされてきたが、平成の大嘗祭では代金を支払い購入する形となり、今回も同様だということです。
儀式は宮中祭祀を担う掌典職が古式装束で執り行い、宮内庁長官も中には入れません。
和琴の音色と神楽歌を歌う声が聞こえ40分ほどで終了したといいます。
占いの仕方は火きり具で起こした火に上溝桜の木をくべながら、竹箸で亀甲をかざして焼き、水をかけて割れ方で吉凶を判断するということは公表されていますが、どんな割れ方をしたのか、どういう根拠で今回の2県を選んだのかは非公表です。
亀は長生きなので未来予測ができるだろうということで使われてきたそうです。
昭和の大嘗祭に携わった人の証言では、
「予め3つずつの自治体が候補になり、天皇が2つずつに絞り込みそのどちらかを亀甲で占った」
とのこと。
平成はすべての都道府県を候補にしたといわれますが実体は不明です。
以下の画像はあくまで想像図です。
選定された栃木県と京都府は喜びの声明を発表しました。
栃木県は那須烏山市の田を推薦する意向だが、詳しい場所は防犯上非公開。
行政の人間だけでどこにするか決めるのは、政教分離の観点からふさわしくないので農協など民間の人間も交えることになるということです。
全国米の生産量で栃木は8位、京都は34位ですが、日本は47都道府県どこを選んでも米がとれるということでもあります。
前回も水田の場所や所有者名などは収穫直前まで非公開でした。
大嘗祭直前には、日本中の神社およそ20ヶ所が過激派に焼き討ちされたそうです。
画像は前回平成の一連の儀式。1枚目は「斎田点定の儀」の模様。


「新穀供納の儀」
儀式で使用される亀の甲羅は、荒川区の鼈甲職人森田孝雄さんに制作を依頼しました。
江戸時代から続く鼈甲製造・卸店の6代目の方です。
「甲羅を縦24センチ・横15センチ・厚さ1.5ミリに加工したもおを10枚製作した」
「アオウミガメは甲羅が薄く割れないように、しかし儀式でひび割れしやすいように薄く削るのが難しかった。
電動工具の使いすぎは熱で甲羅を傷めるためノミやヤスリで丁寧に削らなければならなかった。儀式が無事に終わったとのことでほっとしている」
とのコメント。
画像は儀式で使用される亀の甲羅です。
儀式は7世紀後半、天武天皇の時代から行われていたことが日本書紀に記されています。
東日本は「悠紀(ゆき)」西日本は「主基(すき)」と呼ばれ、各地方からそれぞれ一つの県が選ばれます。
悠紀から占いを始め、前回は秋田と大分が選ばれました。
宗教的な要素が濃いので、国事行為ではなく皇室行事という扱いになっています。
アオウミガメは絶滅危惧種ですが、小笠原村では食用として制限付きでの捕獲が認められています。
そのうち8頭の甲羅を亀の保護活動をしているNPO法人を通して献上するという形で、儀式用の甲羅を確保しています。
小笠原では昔からタンパク源として食する文化があり、現地では保全活動に尽力し産卵数の増加などの結果が出たことにより、東京都により年間135頭での捕獲が許可されています。
地元の料理店「丸丈」さんによると、もとは結婚式などの祝い事で食べるものだったそうです。
赤身肉で味は淡泊、馬肉に似ているとのこと。
昭和の儀式では滋賀県と福岡県が選ばれました。


御田植祭では村人の歌に乗せて苗が植えられていきます。
農林大臣が視察に来るなど当時は国を挙げての行事でした。


斎田抜穂の儀を経て粒選りし、丁重に米を扱っています。
滋賀県と福岡県で収穫された米は前者は鉄道、後者は船と鉄道で京都御所に運ばれ儀式に使われました。
当時の大嘗祭は京都御所で挙行されていました。


昭和の儀式で選ばれた福岡県では当時の水田は脇山中央公園になり、記念碑が建てられています。
脇山のお米「夢つくし」は今でも人気が高く、御利益に預かろうと神奈川県から購入に来る人もいるそうです。