草薙の剣について。

長い10連休が終わりましたが、皆様いかがお過ごしになられたでしょうか。
私は国立公文書館で開催された「江戸時代の天皇」展に行ってきました。
改元と新天皇即位で注目が集まっているのか、地味なテーマにも関わらずたくさんの人が来ていました。
江戸時代の天皇家について様々なことが学べましたが、やはり圧巻は最後の展示、「平成」の額でした。
小渕官房長官がかかげた本物です!

平成額縁
008













5月1日には新天皇即位の儀が執り行われました。

ちなみに天皇が皇位に就かれること自体は「践祚(せんそ)」といいます。
践祚の事実を国内外に公式に表明することが「即位」ですが、現在では両者は混同され、「即位」の語が皇位就任を意味するものとして一般的に使われています。

剣璽(けんじ)等承継の儀即位礼の根本となるのは「剣璽等承継の儀」といって、三種の神器のうちの剣と勾玉、国号と天皇家の印鑑を新天皇が継承する儀式です。
そういうと伊勢神宮や平安神宮のような大きな神社で行われるとか、雅楽演奏の中参列者一同古式装束に身を包みというものを想像しますが、実際には会議室のような簡素な部屋で一同モーニング姿で、宝物を入れた箱を持ち込んで新天皇陛下の前に置き、そして持ち去るという洋風で簡便なものでした。


この三種の神器の一つ、本物は熱田神宮に祀られ、皇居に安置され即位礼で使用するのは形代だという「草薙の剣」について語ってみたいと思います。



スサノオ草薙の剣の出自は、720年に完成した「日本書紀」で語られています。
高天原を追放され出雲に至ったスサノオが八岐大蛇を退治して、その大蛇の腹の中から出てきたものがそれだと言います。
最初の名称は天叢雲剣といい、スサノオが天照大神に献上し、孫のニニギが三種の神器として携え降臨。

その後天皇家の宝物として歴代天皇に伝わる。
11代垂仁天皇のときにヤマトヒメが剣と鏡をまつる神社を建て、そてが伊勢神宮となtる。
12代景行天皇の王子のヤマトタケルにヤマト姫が剣を渡し、焼津でタケルの危難を救い。名称が草薙の剣となる。
ヤマトタケルは帰途に尾張でミヤズ姫と出会い、剣を預けノボノで死亡
ヒメは剣を祀るために神社を建て、それが熱田神宮の起こりである。


「平家物語」「吾妻鏡」は、平家が都落ちの際に御所から草薙の剣を含む三種の神器を持ち出し剣は壇ノ浦に沈んだと記述しています。

しかし9世紀に成立した史料「古語拾遺」と鎌倉時代に成立した史料「禁秘抄」によれば、次のようなストーリーになります。
「崇神天皇の時代に神様と住むのは畏れ多いといって形代(複製)を作りそれを即位式に使うことにした。
本物は大和の笠縫邑にお祭りし、さらに伊勢に移しそこから熱田に移った。
平家が持ち出したのは形代。
それが壇ノ浦に沈んだ後は、清涼殿の御剣を即位式の儀器として使っていた。
その後伊勢が新たな形代の剣を奉り以後はそれを使うようになった」

平家物語は民間で成立した物語、吾妻鏡は北条氏が自身の顕彰のために作成した史料。
それに反して「古語拾遺」は神官の斎部広成が記した神道史料、「禁秘抄」は順徳天皇自身が記した有職故実史料なので、信頼性は高いと思われます。

つまり、八岐大蛇の体内から出たという剣は変遷はあったものの熱田神宮に納められ、その後は一貫して当地に保管され現代に至っている(何度か盗難被害にあったものの戻されている)。
平家が持ち出して海中に沈んだのは複製。
その複製のさらに複製を作成して御所に安置した。
南北朝の時代に南朝が持ち出してその後戻され、現代に伝わり皇居に安置され、今回の継承の儀式でも使用されたのは複製の複製ということになります。

現在は熱田神宮の本殿にご神体として祀られている草薙の剣とは、どのような形状をしているのでしょうか?

実在するというのは確かだといいますが、宮司の方によると「どのようにお祀りしているかなどそれ以上のコメントは控える」とのことです。
秘中の秘として一般公開されたことはなく、写真は当然として絵図も存在しません。
天皇すら見ることが許されず、形状や材質が正式に発表されたこともありません。


古代日本には金属加工技術がなかったので刀剣は最初は石で作られていましたがこれは実用度の低いものでした。
4世紀後半に朝鮮半島から金属加工技術が伝わり、武器の材質も銅になり、ついで鉄になりました。
鉄剣は銅剣とは比べものにならないほど強靱でよく切れるのですぐに銅剣を駆逐し、銅剣は儀式用になったり鋳直されて他の儀式道具になっていきます。
4世紀頃の遺跡からも立派な鉄剣が出土し、5世紀頃には中世から近世の日本刀と遜色のない切れ味のものが作られるようになります。


古代出雲は鉄の産地であり、優れた加工技術をもっていました。
スサノオが当地の怪物を退治しその分身たる剣を天照大神に献上したというのは、出雲が大和政権に服属した歴史を象徴していると思われます。

そのため草薙の剣は、出雲の性質から鉄剣であると一般的には考えられているのですが、銅剣と主張する説もあります。

徳川綱吉の時代の国学者が著した書物「塩尻」には、
「1686年、草薙剣の納められている櫃を新調し、その際に剣を取り出したので関係者に神罰が当たった」
という記述があります。

1897年 東京帝国大栗田寛博士の著作「神器考証」が発禁になります。
栗田博士はその中で、18世紀前半に熱田神宮の神官たちが草薙を実見した記事を引用しています。
「櫃が納められている内陣にはいると濃霧が起こり、扇で払わなくてはならなかった。
櫃は長さ五尺ほどの木箱で、その内に石の箱があり、二つの箱の間には赤土で埋められていた。
石函の中にも赤土が詰められ樟の木箱が入れられ、その中にさらに黄金を入れ、剣が鎮座されていた」

見た者は次々に病になり、生き残った1名だけが書き残したということになっています。
剣の形状は以下の如くであったといいます。

・形は菖蒲の葉のようで中心に厚み
・長さは二尺6か7寸
・元の方6寸は節だって魚の骨に似て、色は全体として白い

原典の書籍「玉籤集」は栗田博士の著作に引用されている以外他に存在しないそうです。


専門家は「証言が本当ならこれは銅剣である。しかし銅剣にしては長すぎるので剣ではなく鉾ではないか」とコメントしています。

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画像は有柄細型銅剣と呼ばれる弥生時代の武具(祭具)で、上記証言の特徴をもっとも備えた形式の剣だと言われています。
有柄細型銅剣は中国の様式で、遼東半島や朝鮮半島で多く出土し日本では出土例が少なく、出た物も当然日本製ではありません。

「日本刀剣全史」という本には熱田の尾張連の家には、草薙剣の形状の噂が伝わっていると記されており、その形状と保管方法は栗田博士の本の引用記事とかなり一致していますが、その噂の実在は検証できなかったそうです。

この噂によれば剣は銅剣の特徴を示し、さらに「樟の木箱の中に入れている」という一条があるそうです。
「鉄は樟脳と合わせると錆びてしまう」というのが、「草薙の剣は銅剣」派の根拠の一つになっています。
現代でも日本刀の保管に樟脳を使うのはタブーです。

これが本当なら、草薙の剣は外国製の銅剣ということになります。
鉄剣はすぐ錆びるが銅剣はよく残ります。
(上画像・広島県城ノ下古墳出土品鉄剣、下画像・荒神谷遺跡出土銅剣(国宝))

鉄剣


東博銅剣


三種の神器の三点セットは権力の象徴としてどこの地方豪族も持っていて、天皇に服属すると差し出すならいになっていました。

天皇即位の時に三種の神器を使うことを制度化したのは、持統天皇の時代です。


持統天皇の時代は、大化改新により、国のあり方天皇のあり方が大きく変わった時代でした。
大化改新以前の天皇は、豪族らがそれにふさわしい年長の人物を選び皇位に就かせるものでした。
改新以後、律令制度と公地公民制度が確立し、天皇はその頂点に立つ存在となりました。
天皇は豪族の信任ではなく制度の上に君臨し、皇位は年齢に関わらず嫡子が代々受け継いでいくものとなりました。
すなわち三種の神器制度が確立した時期は天皇の超越化が図られた時期、そして「三種の神器の由来」が日本書紀によって規定され権威付けがされた時期とも重なります。

これらの事実から、草薙の剣を含む三種の神器の実態について何らかの推察ができないものでしょうか?